(H27年09月05日)
設計の立場 - 1
昨今の建築士処分から (その1)
昨今の「建築士処分」を垣間見て、どうしてこんなご時世に・・・と感じたり、また日常の業務に「大変だな」と心に刻む日々の方が多いと思い、「構造のご支援」として全国各地で体験してきたものから、「設計の立場」として論評します。
国土交通省住宅局建築指導課の資料によりますと一級建築士の登録状況は、平成25年3月31日現在、352,168人となっています。国外に726人も含めて、「士」と名のつく方が毎年約4000名合格しています。医師の数は、約28万6千人です。
「ニセ医師」や「免許偽装」など「品位」を汚す行いは国家資格に同様の「免許制度」がありながら、そのシステムの崩壊を意味する反社会的な「犯罪行為」でもあるのは同じレベルの社会問題です。
最近では、「一流ホテルの食材偽装事件」が社会的批判を浴びて社長が辞任となりました。
私達の業界では、一人の元一級建築士の「犯罪行為」に端を発して、法律改正まで進みましたが、「医師法」は、国民の生命を守る職業能力として「根幹的法 律」として存在しております。しかしながら、「ニセ医師」や「免許偽装」の事案が出ても厚生労働省の対応を見ると「建築技術レベル」とは違い、地方への赴 任医師不足など人命を守る「社会問題」が別の角度を酌量しているようにも思えます。
町医者と呼ばれる方々にも「専門医制度」が進捗して、経験年数だけではなく「職能」に対する医師自身の自己努力を促す傾向になっております事は喜ばしいです。
また、常々考えさられるのは中央省庁の上級公務員の方々自身にも「職能資格考査制度」を設けて第三者の国民側から「能力評価」が出来たり、官僚と呼ばれる方々の「自己保身」にクサビの入る社会に改新して欲しいと考えるようになる風潮が育つ事を願います。
良く言う、「アメとムチ」という情操は、評価する方とされる方にとって共々に「気付き」が必要であり、一方的なものは「過酷な試練」となってしまいます。
建築行政の分野でも、何故「建築主事」が「構造計算書」の審査がいまだに出来ないのか・・・。そこに、基本的な事柄の置き忘れがありながら、「適合性判定 制度」と称する実務者に協力を求めた無作為施策ではやはり「建築基準法」そのものを抜本的見直しに着手しなかった政治の責任も見え隠れし、最高裁判所の 「公務員に非責任」の判例からも見えます。
ただ単に、「建築士の処分」だけではなく、何故このような社会になるのか・・・そこに
戦後教育も含めて、「建築確認」という制度が疲弊してしまっていると考えるのは私だけなのでしょうか。
設計の立場 - 2
建築士の社会評価 (その2)
「構造のご支援」を「ライフワーク」に全国各地で「学び」の中から「建築主事」や「建築確認検査員」の資格取得を目指して頑張った方とか、今頑張っている方々と接しております。そこから見えてきたものから、引き続き論評します。
一級建築士の数、352,168人に対して、「設計の立場」を論ずる時、審査する側と申請側に「構造設計一級建築士」の数がどの程度存在するかですが、 (財)建築技術教育普及センターの資料によると、平成25年12月19日現在9,137人となっています。単純に「構造の実務者」は、 (348,436-9,137) / 9,137 ≒ 38人に1人とはなりません。
何故なら、構造実務での補佐も含めた裾野の人口が把握出来ておらず、法第20条の規定によって「設計関与」に規制を掛けているので「構造設計一級建築士」の修了考査の合格を目標に受験対策とならざるを得ないのが現状です。
低層建物から超高層建物まで同一資格証にて関与の義務付けを図ること事態、問題提起せざるを得ないのが現状で、何故、国土交通省の施策には再考余地をもたないのか疑問です。
一般の方々は、身体の不調を訴えると「医師の診察」を受けて「病理検査」の結果や処方に「医師の処置」が必ず必要ですが、島嶼・離島・へき地での「医師の 立場」となれば今更ながら「専門分野」がどうの、こうのと言っている時間的余裕はなく医学的な「迅速で総合的措置」を希求されます。人の命に係わる訳です から、社会は容認いたしません。しかるに、建築設計の分野では、どうでしょう・・・建築主・発注者はまさに素人です。
依頼したものは、荷重・外力に耐える構築物は当然です。にも拘わらず、自分で安全検証の出来ない建築士でいいはずはない。法律は、告示はどう書いてあるの か再読しましょう。東京都町田市で起こった「某店舗」の設計委託の転がし推移を見て、「唖然」としたのは「設計の立場」の置き忘れであり、これでは亡く なった方々が報われません。何が、どうなっているのか不明ですが・・・社会的な評価として「建築士」は自分で構造計算が出来ないのか・・・そんな建築士に 設計依頼するのは困るはずです。
以前に、神戸市の市会議員さまの資産運用においてご本人から「お尋ね」を受けました。「設計委託を依頼する建築士さまに対して、ご自身で構造計算をしてい るのか否か知りたい」との事。彼が聞きたかったのは、どうすれば「その技術能力を持つ建築士」なのかの判別情報に辿り着くか。まさに、このことです・・・ 「建築士としての社会評価」です。
私のお返事は、「直接ご本人に尋ねなさい」でした。
それもずばり、「貴方は、ご自分で構造計算しますか?」
社会は、「はっきりと評価します」。それが、現実です。
設計の立場 - 3
建築士受験制度の疲弊 (その3)
前回、「構造計算の出来る、出来ない」などを述べてきましたが、審査する側もまた申請する側も同じ境遇を見ております。「ライフワーク」に全国各地で「学び」の中から感じたのは、「初志貫徹」の気力負けが圧倒的に多いことです。
差し迫った事案に、「その場しのぎ」では同じことの繰り返しとなります。
どうしてもここで「浮かび上がるもの」が「意匠と構造のギャップ」です。
共に「一級建築士」なのに・・・ライセンス取得時を思い浮かべて見て頂きたいです。
某資格学院等に毎年々々、高額な授業料まで支払って、やっと免許頂いた後は他人事のように「分業化」がどうのこうの・・・「建築士事務所」を開設するなら 「構造計算」はどうするのか・・・それを考えてからにしなさい・・・と若年期に大阪から3時間もかかる片田舎での開業当初、先輩の忠告を思い起こしまし た。
新耐震以前でしたが、何とか自分で構造計算の事務処理が出来た途端に「次から次に襲う基規準の改正」で地獄の苦労でした。
事務所の床に新聞紙を敷いて仮眠が続く状態なのに、誰一人後に続く若い技術者が育たぬ環境でした。世の中、スポットライトを浴びる著名な建築家と称する方々に憧れるばかり。「縁の下の力持ち」の存在なんて知る余地もない地味な世界の「社会システム弊害」です。
この「社会システム弊害」に、国交省は真剣に取り組む行政施策の必要性を認識して
頂きたい。宮城県沖の地震被害から、「弾性設計」から「塑性設計」に設計フローが耐震計算へ移行となると、こぞって「一貫計算ソフト」に頼り切った業務と なってきてしまったのです。「意匠」であろうが、「構造」であろうが所詮、建築系の学問の必修範囲のはずです。「建築士受験」時に、何故、受験科目に「構 造計算」を科さないのか不思議です。
霞が関の官僚(上級公務員)の採用時にも「構造計算考査」を科すべきだと思います。
某資格学院での法令定期講習で学院廊下の「掲示板」に掲げられていた「国土交通省」の東大卒の多数の職員の方々のお名前があり、受験対策にお世話になる始 末です。受験対策に対して「独学」であれ、「共学」などとやかく申し上げるものではありません。明らかに「建築士受験制度」は疲弊しきっているのは事実で す。
真剣に、今後の技術立国として「若人」を育てるなら、「構造計算を他人に依存する」この風潮にピリオドが必要として政治が「建築基本法」の制定へ向かって舵を切って頂きたい。
設計の立場 - 4
昨今の処分事例から (その4)
前回まで、「構造計算の出来ない」事に警鐘する論評などを述べてきましたが、このあと実際の処分事例からテーマである「設計の立場」を共に考えるきっかけにしましょう。
処分事例は、何度も申しますが、「申請側」であって「審査側」や「施策側」には一切世の中の目に触れない仕組みに問題があります。小泉内閣時の「民間委託」に端を発した行政改革で唯一抵抗のあった「官僚」の「官と民のギャップ」も論じる必要があります。
今更ながら、建築基準法第6条の2第10項を見て頂きたいです。この条文こそ「官」が上で「民」は下である・・・の典型的なものです。しかしながら、資格付与に関する講習についても「民間開放」と言いながら財団法人の圧倒的優位なのにお気付きでしょう。
大阪圏での動きの中にヒントがあります。自動車運転免許の更新時に実施する講習業務に入札制度を取り入れて「交通安全協会」の独占状態が崩れました。単な る「天下り」団体に社会的に厳しい視線を向けられた結果です。「建築士免許」の更新時の講習も同様の動向が見え隠れしています。いずれ、中央審査会委員選 定にも国民の目が届き、監視する機構の必要など諸委員会組織の仕組みや機構改革として同様に論じられる日が来ると思います。
水は随時流れて、初めて清らかなものであり、堰き止めたりすれば、たちまち淀み、汚水となります。「政策や施策」の天下り団体へ依存廃止と、特別会計の予算・決算に国会承認を必要とする新政治に期待したい。年号が変わる頃には大きな改新もあるかも知れません。
昨今の処分事例は、「建築士事務所の開設者」とか「「管理建築士」であったり「設計者」の分類となっています。その中で注目したいのは「設計者の違反」に対する処分です。
「適合違反」とか「虚偽の作成又は行使」が「品位の保持や品性の向上」という意味合いを持ちながら事例として氏名公表されるのです。「建築士」である前に、自立と自覚できる「人間像」すら求めるものとも捉えられ、これは当然、処罰する側にも求められます。
設計の立場 - 5
団体に加入する意義 (その5)
一個人がもがいても、「所詮犬の遠吠え」と言われ、あげくに「勝ち組」「負け組」なる呼称で分別されているような錯覚に陥る時、「組織力」とか「団体の団結力」に期待して物事の推進を推しはかる例を多々見受けます。
若年期に地方都市で育った私の場合は、県の出先機関である土木事務所の「建築主事」に言われるまま「建築士会」に暫く入会しました。
しかし、退会届と共に入会したのが「日本建築学会」で「正会員」として長年続いていますし「学び」に必要だったのです。
「人」「物」「お金」が「東京」や「大阪」に集中し、若年期の当時は「情報」も大都市に偏っていました。
「学び」のために「日帰り」はままならず・・・辛い日々でした。団体に加入するのは、「強制」ではなく「任意」です。
とある冊子にこんな記事があります。
「弁護士は業務を行うには、試験に合格して司法修習を修了しても、基本的にはその
組織体である弁護士会に加入しなければ業務を行うことはできません。建築士には
そのような義務はないのです。しかし、建築学会・建築士会・建築家協会など入会す
ることが、自分自身を社会に向かって表示することなのであって、そのような簡単な
事務手続きであっても、それが、建築業務を生業とする者が自分に課された最初の
社会的責任であることを自覚するような環境づくりが必要なのです。」
これは、様々な裁判所専門委員とか民事調停委員の経験のある立派な方のお考えです。各自、しっかりと自論を持たれて世の中の動向にも注視されながら判断されて社会的な責任を全うされれば良いと考えます。
設計の立場 - 6
建築士のあるべき姿 (その6)
「設計の立場」と題して述べてみて少し気付いた点を色々書きました。あくまで個人の論評ですので、お気に召さぬ部分は読み飛ばして下さい。
「ライフワーク」として、「構造のご支援」をしていると「設計の立場」をお忘れかなとか相当深く思考されている方など色々です。その中で、共通して言える ことは、やはり私のお会いさせて頂いた諸兄の「学び」とか「気力」など「建築士のあるべき姿」を垣間見た感じがします。沖縄県では、「病床」から「点滴」 をつけたまま「学び」に参加下さった方があるとか、今でも毎月勉強会のために「遠路」を航空機や新幹線にて往来して下さる方には自然に頭が下がります。
真剣に「学ぼう」とされる方には「とことん応援いたします」と述べています。
「建築士」に「意匠」だの、「構造」だのありません。すべてご自身の「守備範囲」です。
「嫌い」だから「構造を避ける」では、厳しいですが「技術者失格」です。
覚えた頃に「基規準」が改訂になり、文献類の投資も相当な金額となりますが、大都市の近郊在住なら少し大きな公共図書館へ足を運べば「学び」に役立ちます。
全国各地へ赴いて、「対面講座」を理想としますが・・・「経費倒れ」で苦慮しています。
どの地でも、30歳台後半の若い世代のご参加を見るにつけ嬉しさがこみあげてきます。
「初歩的な学び」も馬鹿にせず、「コツコツ」とやれば自然に身に付きますが、あせりを
感じて「一夜漬け」のような詰め込みでは、「その場しのぎ」に終わってしまいます。
「仮定断面を決める」というセミナーをシリーズで展開させて頂いており、その終了時に
どこからとなく「拍手」を頂きました・・・もう「感無量」です。
静かに聴講頂いて、何となく「理解できた」のが実感としてあったのでしょう。
ここに「建築士」として「学びの原点」があり、「建築士としてあるべき姿」として「品位」や「品性」となって示されたものだと私なりに解釈させて頂いております。
「ライフワーク」でのご支援が「心の通信」となっている事に感謝いたします。
「学びに終着駅」はありません。共にがんばりましょう。